棗坂(なつめざか)猫物語

猫目線の長編小説

8章

8章
   翌朝階段を降りるカオルの足音で目覚めたら、私はいつものようにカオルに挨拶をした。
(おはよー。おはよー。ごはんまだー?)
「おはよう、ケイト。よく眠れた?」
  毎朝、この瞬間だけはかろうじて会話が成立。
   カオルは私のお皿に朝食のカリカリを入れて、お水を新しく交換する。そして、私が食事をしている間に私の首に首飾りを巻くの。
   カオルは手芸が趣味で、一時期私の首飾り作りにハマっていて、私は2週間毎日替えられるくらい沢山の首飾りを持っているの。カオルは私のテーマカラーをピンクだと決めてるみたいで、ピンクのリボンや花柄の首飾りを毎日日替わりで私に着けるのが楽しいらしいわ。別に、そうやって飾り立てるお洒落には私は興味ないけど、道行く人が
「あら?あなた、また今日も違う首輪してるのね」
って私に感心を示してくれるのは、悪い気はしない。それに、昨日から私、客商売始めたから、ちょっとでも可愛くしとかなくっちゃね。
    そうそう、昨日あったこと、早くショウ君に報告しなくっちや。
(カオル、お外に出して。出して、出して)
   掃き出し窓の前で、私が外に出してとお願いしても、カオルは朝の身支度に忙しくて、私のことを完全無視する。
(出してったら出して!出して!出して!出して!)
   カオルはちょっと私の方を見たけど
「ダメよ、ケイト。今日もマリエに行くんだから。もうしばらくお家の中で待ってて」
と鏡の前で長い髪を束ねながら言った。
(嫌~!ショウ君とこ行くの~!)
(ねぇ~、ちょっとだけだから~。カオル~、お願~い)
(ちょっと、あんた、なに無視してんのよ?)
(オラ、オラ!カオル!出せ!出しやがれ!このクソババア!)
徐々にヒートアップし、言いたい放題言いながら壁をガリガリやりだしたら、ようやくカオルは
「やめて!ケイト。分かったわ。ちょっとだけよ。呼んだらすぐに帰ってくるのよ」
と言って、やっと私を掃き出し窓の外に出してくれた。
   カオルは、私がオヤツの袋のバリバリいう音を聞いたらすぐに自分の所にとんで来るって知ってるから、比較的私の自由行動を許してくれる。私、雌だから、そんなに遠くに行くの好きじゃないし、ちょっとワガママ言ってその後言うこと聞けばオヤツが貰えるから、実はこれって、結構美味しいの。そんな私のことを
「ケイトはすぐにオヤツに釣られるから単純で良いのよね」
ってカオルは言うけど、私から見たら、そうやってちょっとずつ私のワガママに甘くなっていくカオルの方がよっぽど単純。
   吉田さん家の窓辺では、いつものようにショウ君が私を待っていてくれた。
(ショウ君、おはよう)
(おはよう、ケイト)
(聞いて聞いて。昨日は色んな面白い事があったのよ)
  私は、昨日一日の出来事をかいつまんでショウ君に話した。
(さすがケイト。君は凄いね)
ショウ君は、ビックリしながらも、優しい目で私を見つめてそう言ってくれた。
(ううん。たまたま運が良かっただけよ)
(いやいや、そういう問題じゃないよ。ケイトはとっても勇敢だ。大勢の猫達に囲まれたら、僕ならとてもそんな風に言えないよ)
  ショウ君は、心から感心したようにそう言ってくれた。
(だって、私、その子達の甘えきった態度にイライラしちゃって、我慢できなかったんだもん。ちょっと本気で凄んだら、皆、シーンと大人しくなっちゃって。でも、マスターが万が一に備えて、私をキャリーケースの中に入れてくれてたから、強気で言いたいこと言えたのかも。そうでなきゃ、私も初対面の猫達を相手にビビって何にも言えなかったかもね。こう見えても、私、案外小心者だから)
(またまた、ご謙遜を)
   こんなやり取りをしていたら、カオルが玄関のドアを開けてオヤツの袋をカサカサ振りながら
「ケイトー、帰ってらっしゃーい」
と私を呼んだ。
(じゃあね、ショウ君。また明日も来るわ)
(いってらっしゃい、ケイト。頑張ってね)
(ありがとう、ショウ君。行ってきまーす)
  ショウ君と話す時間が今日はあんまり取れなかったわ。明日は、もっと早くから騒いでやろうっと。

   昨日と同じ道をキャリーに入れられて運ばれて行くと、マスターもママも、笑顔で私を迎えてくれた。
「おはよう、ケイトちゃん。今日も一日よろしくね」
そう言って、二人はいそいそと開店の準備を始め、私はキャリーから出て、店の中をあちこち見て回った。

   昨日は緊張してじっくり見る余裕がなかったけど、改めて見ると、このお店、なかなか趣味が良いわ。白い漆喰の壁には小さな絵が数点飾られているだけでスッキリしていて、窓からは、赤や黄色に色づいた木々が見える。テーブルと椅子はズッシリと重みのある濃い茶色の木で出来ていて、 床も同じような古びた木の板が敷き詰められている。猫が休憩しやすい程よい四角の窪みと出っ張りが漆喰の壁のあちこちに配置されていて、昨日早速サリナが入り込んだ明かり取りの窓も、そういう窪みになっていた。   

  マスターは、小ぶりなグラスを光にかざしながら丁寧に磨いていて、ママは各テーブルにガラスの小さな花瓶に活けられた花を飾っている。
キラキラした朝の光が部屋の中に差し込んできて、色とりどりの花瓶が白い壁に沢山の不思議な影を投げかけていた。しばらくすると、軽やかで陽気なメロディーが天井にある四角い箱から流れてもきた。これが、昨日オルガが言ってたカンツォーネね。
    程なくして、バックヤードから、昨日のメンバーが出てきた。
(おはよう、ケイト)
(おはよう、みんな)
昨日とは打って変わって明るく元気な猫達が出迎える、猫カフェマリエの一日が始まる。

   今朝は、タッチの差で、常連のノザワさんがサトウさんよりも先にお店にやって来た。
「おはよう、ケイトちゃん。今日は一番乗りで来たよ。ハイ、オヤツだよ」
そう言って、ノザワさんは私を膝に乗せて、ママから買ったオヤツをくれた。
   私がノザワさんの膝で至福のオヤツタイムに入ろうとしていると、サトウさんもやって来て
「あら、今日はノザワさんに先を越されたわ」
と悔しそうに席に着いた。
「昨日のリベンジをかけて、今日は開店前から外で待ってたんですよ」
「あら、そうなのね。私の読みが甘かったわ。じゃあ私は、明日からケイトちゃんの入り待ちしなくっちゃ」
常連さん達は仲良しだ。そんなサトウさんの所に、今朝はジャニスが擦り寄って行った。
(おはよう、サトウさん)
ジャニスは、昨日私が教え込んだ通り、サトウさんの足下で甘い声で挨拶をした。
「あら?どうしたの?ジャニちゃん、あなた、今日はやけに愛想が良いのね」
   ジャニスは私を真似て、サトウさんの膝に自分から飛び乗った。
「まあ、どうしちゃったの?ジャニちゃん。あらあら、まあまあ」
   サトウさんは、急に猫が変わったように愛想よくなったジャニスの豹変ぶりに驚きつつも
「あなた、綺麗な毛並みねぇ。よく見ると、お目めの色もとってもステキだわ」
と嬉しそうにジャニスを撫でながら言った。
(聞いた?ケイト。私、綺麗だって!ステキだって!)
   ジャニスは有頂天になって、ゴロゴロ喉を鳴らしながらサトウさんの膝の上で目を細めた。
「ジャニちゃん、あなたがこんなに可愛いなんて、私知らなかったわ。このしっぽの動きが何とも言えないわね」
   サトウさんもジャニスとおなじように目を細めて、幸せそうにしていた。
   そうやって、しばらく猫と人との幸せな時間を過ごしていると、ドアベルが静かな音を立てた。
「いらっしゃいませ」
マスターの呼びかけに
「こんにちはぁ」
と控えめな声で挨拶をして中に入ってきたのは小柄な女性だった。私のお腹と背中の境目くらいの白めの髪の毛をキチンとまとめたそのお客さんは、ゆっくり歩きながらガラスのようにキラキラした目で店の中を見回して、店の中央にある6人がけのテーブルの真ん中に怖ず怖ずと座った。
   メニューを見てコーヒーを注文した後、その女性はゆっくりと顔を上げた。その位地からはサリナの占拠する明かり取りの窓が一番良く見える。女性とサリナの目が合った。女性はサリナをじっと見た。
(えっ、何?この人)
   サリナは一瞬動揺して立ち上がろうとした。
(サリナ、落ち着いて。良いのよ、そのままで)
   私の声かけを聞いて、サリナはまた元の姿勢に戻ってその場で丸まった。
   しばらく経って香り高いコーヒーが運ばれるまで、眉間に薄らと縦皺を作って、女性は思い詰めたように一心にサリナを見上げていた。まるで、罪を犯した人が教会の十字架に向き合った時みたいな深刻な顔で。…あっ、この前カオルと一緒に観たDVDにそんなシーンがあったのよ。その登場人物みたいな思い詰めた顔に、その時のその人は見えた。
   ママがテーブルにコーヒーを置くと、女性は
「あの…、後で、店内をスケッチさせていただけないでしょうか?」
と不安そうな目でママに問いかけた。
「ええ、どうぞ。今はお客様が少ないので、お好きな席に移動していただいても大丈夫ですよ」
ママが優しくそう答えたのを聞いて、女性はいくらかリラックスしたようだった。それから静かにコーヒーを飲んで、残り少しになったあたりで、その人はコーヒーカップを少し遠くに避けて、大きな布のバッグの中から、スケッチブックとペンケースと色んな色の丸が並んだ四角い箱を取り出した。あれ、カオルもよく似たの持ってる。多分、絵を描く道具だわ。
   常連さん達は帰って行って静かになった店内のBGMは、いつの間にか厳かなムードのものに変わっていた。男の人ばっかりのコーラスみたいな、不思議な雰囲気の曲。
(グレゴリオ聖歌だわ)
音楽に詳しいオルガが言った。
(ママはたまにお客さんの雰囲気に合わせてBGMの種類を変えるの)
   楽器の音がない人の声だけの荘厳な音楽が流れる中、その人は席を立って、空いている別の席に座って窓の外を見たり、他の猫達の様子を注意深く眺めたりしながら、しばらく店内をウロウロ歩いて、また元の位置に戻ってきた。そして、スケッチブックを広げると、真っ白なページに向き合いゆっくりと深呼吸した。そして、決意したようにもう一度窓辺のサリナを見上げた。
(わっ、まただ)
再びたじろぐサリナ。
(ケイト、私、どうすれば良いの?)
臆病なサリナは私に救いを求めるように言った。
(この人は、これからあなたの絵を描くつもりらしいわ。大丈夫、これ以上近づいては来ないから。だけど、折角だから、あなたの決めポーズを見せてあげなさいよ)
(決めポーズ?何それ?)
   サリナは目を丸くしてわたしを見た。
(ほら、あなたが時々やってる、前足をそろえて、顔を上げて横を向いたまま遠くを見つめるポーズ)
(えっ?私、そんなポーズしてたっけ?)
(ええ、無意識にね。そのポーズ、エレガントで良いのよ)
(エッ、エレガント?…私が?)
うろたえるサリナ。
(えっ、…こっ、こう?)
   私の指定したポーズをサリナが取ると、その女性はハッした顔でペンを取った。そして、一心にサリナのスケッチを始めた。
   荘厳なグレゴリオ聖歌と女性の紙とペンから発するカサカサという音だけが店内に響いた。ママもマスターも奥でランチの準備を始めた。
(ねぇ、ケイト。このポーズ、いつまで続ければ良いわけ?)
しばらくするとサリナがこう尋ねた。
(大きく動き回らなければ、適当に崩して良いわよ。もっとも、誰も猫がポーズ取ってるとは思ってないから、動き回っても怒られることはないけどね。でも、どうせなら出来るだけそのポーズのままでいてあげた方が、その人は喜ぶんじゃないかしら)
(そっ、そうね。分かった。出来るだけ頑張ってみる)
   サリナは引き続きそのポーズでそこに座っていた。しばらく経ったら、女性は色んな色の丸の箱を開けて、透明の細い尻尾のようなもので絵に色を付け始めた。まるで魔法のように白い紙の上にサリナの姿が浮かび上がってくるのをワクワクしながら少し離れた棚の上から私は見てた。

   この人、凄いわ。何もない真っ白な紙に生きてるようにサリナを写し出すなんて、猫にはとても出来る事じゃない。…まあ、それは当たり前だけど、他の人間も、多分こんなに上手にサリナは描けないでしょうね。私が感心したのは、その人の描いたのが、他の猫ではではなくてまさにサリナそのものだったから。同じブチ模様のサビコとも違って、背中の滑らかなラインや、細い肩の線や微妙な首の傾げ方なんかが、とても特徴をつかんでいた。もっと言えば、不安そうに遠くを見つめる黄緑色の目の表情なんか、まさにサリナそのもの。
    そうやって、私が感心しながら見守る中、彼女は一心に絵を描き続けた。始めは何だか難しい顔して描いてたけど、描き進むにつれて、彼女の顔の険しさは消え、かわりにそのキラキラの瞳に、何ともな言えない楽しさが漂ってきた。きっと、この人は、いつまでもこうして描いていたいんだろうな。私、猫だけど、こんなに上手に絵が描けたら、きっとすごく楽しいと思うもの。
   けれど、遂に我慢できなくなったサリナが大きく伸びをした所で、一旦作業は中断した。彼女は少し水を飲んで、今度は背景の色を塗り始めた。丁度、お店の裏の公園の木が紅葉して窓の外に見えるのを、今度は大胆に色を置いて、それを水でにじませて、彼女は透明の尻尾を置いた。
「ふぅ、完成」
思わず独り言を言ってから、すっかり冷めたコーヒーを一口飲んだ後、彼女は
「あっ!」
と声をあげた。


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