棗坂(なつめざか)猫物語

猫目線の長編小説

9章

9章

「これ?」
コーヒーカップと周囲を交互に見ながら、彼女がキョロキョロしていると、厨房から出てきたマスターが言った。
「それね、私の甥が陶芸家でしてね。アイディアは姪からもらったんですが 」
「今、私が描いた猫と同じポーズなんですけど」
コーヒーカップのくぼみにできた模様を見て、女性は丸い目を大きく見開いて嬉しそうに言った。
ママも厨房から出てきてニコニコしてる。
「ここにいる猫の数だけ、…ああ、今はそれより一個少ないけど、…一応七種類あるんです。今日から下ろしたてなんですが、お客様にはそのデザインが良いかな?と、思いまして」
「素敵」
女性はかみしめるように言って、コーヒーカップの中に浮かび上がった、残り少しのコーヒーでできたサリナのシルエットと自分の絵を交互に見比べていたが、不意に、その人の顔に、チャーミングな笑い皺ができた。
「私、今日は一人で日帰りのスケッチ旅行をしてるんです。この駅前商店街は今までにも何度か来たことがあったんですけど、今まではここの存在には気づかなくて」
女性は問わず語りにそう言った。
「ええ、今年の9月にオープンしたばかりですから」
「そうなんですね。でも、先月別の用事で来た時には気づきませんでした。多分、私が猫を好きでも嫌いでもないからなんでしょう」
女性は伏し目がちにそう言った。
「でも、今日、公園でボーッと景色を眺めていたら、そこの窓辺に座っているこの子の存在が、目に飛び込んで来たんです」
女性はサリナを見上げて言った。
「私、子どもの頃から絵が好きで、だけど、特に深く芸術に接することなく、若い頃は働いたり主婦をしたり、平凡に暮らして来たんです。だけど、子育ても一段落した時、ふと自分はこのままで良いのかな?って思って」
「ええ、そういうの、私も分かります」
ママが柔らかく相づちをうった。
「で、十年前に絵画教室に入ったんです」
「ええ」
「だけど、そこでは私の描きたい絵は学べなかった。勿論、基礎は身についたからそれはそれで良かったんです。でも、どこまで行っても、それじゃあ絵の上手なシニアの域を出ないんです」
「まぁ」
どう言って良いのか分からない顔をしながらも、ママは真剣に女性の話に耳を傾けた。
「遅すぎだって、ある時愕然としたんです。私、本気で画家に成りたかったんだって、絵画教室に入って3年目に気がついたんです。いいえ、別に職業画家になれなくったって良い。無名で良いんです。ただ、自分で自分自身を堂々と『私は画家です』と言えるくらい本気の絵が描きたくなったんです。それで、絵画教室をやめて、そこからは独学で試行錯誤しながら、本気で絵を描き始めたんです」
「そうだったんですね」
ママは相づちのタイミングがうまい。
「そう。どんなに疲れていても、毎日必ずキャンバスに向かおうと決めて、最初は、それだけで毎日がワクワクして、苦しくもあったけど楽しかったんです。でも、人間って段々欲が出てくるもので、…やっぱり人から認めれたいって衝動が、少しづつ芽生えて来たんです」
「まあ、それは誰だってそうなりますよね」
ママは何かを思い出すように頷いた。
「それで、絵画展に応募したんです。50号の大作を描き上げて、私、自分のことの天才じゃないかしらって、悦に入ってたんです。でも、見事落選。最初からそんなに上手くはいかないわよって、友達は皆慰めてくれました。あま、そうですよね。でも、結局、よくよく考えたら、展覧会で選ばれるのは、審査員の高名な画家に師事している生徒さんばっかりで、結局、その先生のコピーみたいな作品が入賞するんです」
「そういうものですか…」
ママは、控え目にそう言った。
「ええ、そうなの。でも、そんなこと最初から分かってたことなんです。なのに、何だか諦めきれなくて、じゃあ、一体どんな絵が選ばれたのかって、わざわざ展覧会を観に行ったりもしました」
「その気持ち、分かるわ」
ママは大きく頷いた。
「でも、『何で、私の絵は選ばれなかったんだろう?』って、やっぱり納得いかなくて。そうこうしてたら、段々何のために絵を描いてるのか、自分のことがよく分からなくなってきて」
しばらくの沈黙。いつの間にかグレゴリオ聖歌も終わって、店内はシーンと静まり返っていた。
「それで、もう一度始めの気持ちに戻ろうと、今朝、スケッチブックと絵の具セットを持って電車に乗ったんです。ホントはもっと遠くに行こうと思ってたんだけど、ここの駅に電車が停まった時、そこの公園の紅葉が綺麗だなって思って、フラッと電車を降りちゃったんです。で、公園に行ってみたら、さっきお話ししたようにこのお店を見つけたんです」
「じゃあ、裏口からこの店の存在に気付かれたんですね」
店の奥からマスターが出てきて、そう言った。
「そういうことになるかしらね。始め、窓に猫の絵を描いてるのかな、と思ったんですけど、よく見たら本物の猫で、なぜかとても惹かれて、吸い寄せられるようにここに来たんです。それで、私、普段、お店の中で絵を描いたりしないのに、気がついたらこんな感じになって…」
ママは、優しく笑って
「お客様は、皆さん始めはそんな感じです」
って言った。
「それで、無心に絵を描いて、描き終わったらコーヒーカップの中から自分の描いた絵と同じ模様が出てきて
…。何だか、神様に『それで良いのだ』と言われたみたいで、私、一瞬、クラクラしてしまいました」
女性はしみじみとそう語った。
「私、何のために絵を描くのかっていう根本的なことを見失っていたんだと思います。描くからには立派な絵を、人に誉められる絵を、って。でも、ホントはそうじゃなくて、私が描きたいと思う物を描きたいように描けば良いんだって、改めて今思いました。猫を好きでも嫌いでもないってさっき言いましたけど、今朝、公園でこの猫のシルエットを見た時に、単純に美しいなって思ったんです。それで、描き始めたら、野生的な存在感に惹きつけられてしまって。…私、初対面の方にこんなに喋ることってないのに、今日は、何だかとても感動してしまって…。まるで、自分の中に猫の野生が芽生えたみたいに」
「猫の野生。…野良だった猫をそんな風に言っていただけると、何だかすごく嬉しいわ」
ママは、心から嬉しそうにそう言った。
「私はもっと私らしく、野性的に描いていこうと感じました。誰が誉めてくれるか、ということより、やっぱり自分が満足いく絵を描けたら、それで十分だし、それが芸術なんだって、たった今、確信しました」
「まあ、それは素晴らしい」
ママは素直にそう言った。
「絵画のことは私にはよく分からないんですが、美しい物を美しいと思ったり、それを表現することが芸術なのだとしたら、猫達はその助けになるかもしれませんね。この子達の何気ない仕草は、時々ハッとする程ステキだから」
   ママは、窓辺のサリナを見上げてそう言った。
   女性もママと同じようにサリナを見上げた。そして、二人が互いを見てどちらともなく微笑みかけたところで、ドアベルの音と共に4人組のお客が店内に入ってきた。
「今日はとっても良い日でした。また来ますね」
そう言って起ち上がった女性に、カウンターからマスターが声をかけた。
「もし良かったら、この店で個展をされませんか?」
「え?個展?」
バッグの中の何かを探す手を止めて、女性は何度も瞬きをした。
「この白い壁、何かに活かせたらいいなと、ずっと思ってたんです」
マスターは自分の言葉に、自分で驚いたような顔をしながらそう言った。
「さっき、展覧会の話をされていた時に、ふと思ったんてんす。この店の中でも、展覧会ができるんじゃないかって」
「まあ」
女性は嬉しそうに笑った。
「何てステキなご提案なんでしょう。個展なんて、今まで考えたことなかったですけど」
「ええ、私自身、自分で言っておいて、驚いてます。でも、今日、不意にこの店に立ち寄っていただいて、そんな劇的な悟りを得られたのであれば、それも何かのご縁じゃないでしょうか?」
マスターは、新しく入店したお客さんを気にしながら、ボソッとこんなふうに言った。
「実は、昨日まではこんなこと、私も考えなかったと思うんですが、昨日を境に、急にこの店の何かが変わったんです」
「この店の何かが?」
「ええ、何か、上手くは言えないんですが…」
「そうですか…」
   更に何人かのお客が入店して、急に賑やかになった店内の雰囲気に二人の会話はかき消された。
「ありがとうございました。また、近いうちに参ります」
と言って、女性は軽いチャイムの音を立ててドアの外に消えた。
   急にランチタイムが始まり、昨日と同じように5匹の猫はバックヤードに連れて行かれた。マスターは、ちょっと考えて、私を店の中に残すことにした。
「アートの風が吹き始めたわ」
店の奥から漂ってくるランチの美味しそうな匂いに舌なめずりしている私に、オルガがそう言った。
「アート…の風?」
私には店内を包み込むこのミートソースの匂いの方がうんと魅力的だけど、「アート」っていう言葉の響き、何だかそれも悪くないわ。

   その後はひっきりなしにお客さんが来て、私達を見て楽しんでいた。私は、ホントはランチの味見もしたかったけど、ここで下手な食い意地を出して、「やっぱりこの子はダメ」って言われたら困るから、食の誘惑にひたすら耐えていた。昨日、エリックに偉そうなこと言っちゃったから、私も頑張らないとね。

  夕方になったら、また昨日と同じ顔ぶれが集まってきた。マスターが、朝の女性の話をすると
「俺の作品がその人の心を打ったんだな。その人も見る目あるけど、俺ってやっぱスゲー」
「なに言ってんの。あれは私のアイディアなのよ」
と、キョウヘイとサクラは、昨日のじゃれ合いの続きを始めた。それをニコニコ見守っているママの機転がホントはすごいんだと私は思うんだけど、きっとこの二人には通じないでしょうね。
「ってかさぁ、よく見たら、この店、結構展示スペース充実してるよね。この壁のニッチに俺の器なんかも展示出来そうじゃない?」
「そうねぇ、キョウ君の作品なら、もし間違って猫に割られても気兼ねないしね」
「何だ?お前、喧嘩売ってんのか?」
「それだけ生活に根ざした器ってことよ。器は使ってなんぼの物でしょう?…なんてね、冗談。ほら、そのニッチの手前にアクリル板をはめた額縁で蓋を作れば、猫よけにもなるし、それを壁付けタイプのLEDライトで器を照らせば、よりギャラリーぽさが増すんじゃないかしら?」
「…認めたくないけど、サクラ、お前頭良いな」
DIY好きだからね。今時はYouTubeで色んな情報が手に入るのよ。どれもホームセンターか百円ショップで見つかる材料だから、休みの日に皆で作りましょうよ」
   そんなこんなでその日もまた、カオルが私を迎えに来るまでの間、人間達の他愛ないやり取りが繰り広げられ、私達の「猫カフェ マリエ」はいつの間にか「猫カフェギャラリー  マリエ」になりました。

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