棗坂(なつめざか)猫物語

猫目線の長編小説

22章


人気ブログランキング

                ↑

クリックしていただけると

励みになります (^^)

 

22章
   ある暑い日の午後、一人の若い男の人が初めて店にやって来た。皺一つない白い半袖のワイシャツに細身の紺色のズボン、細い黒縁の眼鏡には全く曇りがなく革靴もピカピカで、キチンとした雰囲気の人。この店のお客さんとしてはちょっと珍しいタイプのこの若者は、まず入り口で立ち止まって、恐る恐る中を見まわして、私達猫に目を配った。大抵の猫好きは、店内に好みの猫がいるかどうかそうやって物色するものだけど、この人のやり方は、他の一見さんのそれとはちょっと違ってた。何だか、明確な目的を持って、特定の猫を探しているみたい。いつもなら
(いらっしゃ~い)
と真っ先に駆けつけるのが私の役目だけど、この人には何だかそれは必要ないようだった。他の猫達もこのことに気付いたのか、そっと彼の様子を見守っていた。
    彼はオルガとルチアーノを何度も交互に穴が空くほど見ていた。
「いらっしゃいませ」
  マスターも、私達の異変を察知して怪訝そうにしながら、それでも張りのある明るい声で、少し遅れてそのご新規さんに声をかけた。
「あ、…あの…」
その青年は、入り口で立ちすくんだまま、マスターとオルガ達を何度も見てから
「…ナガレヤマ先生が生前飼っておられた猫さんは、その子達でしょうか?」
と、おどおどしながらそう言った。
「…と、おっしゃいますと…?」
  マスターは、不思議そうに青年を見ていた。それもその筈、私達猫は、そこに来るまでの互いの身の上を話し合って知っているけれど、人間達はそれを知るすべがないもの。
「家内はいくらかその辺のことは把握していると思うのですが…」
マスターがそう言ってからしばらくして、ママがバックヤードから店内に姿を見せた。そして、さっきと同じ質問を、今度は少しだけ慣れた雰囲気で青年がママにもした後、少し経ってからママは
「詳しくは存じ上げないですが、この二匹の元の飼い主が高名な音楽家の方だったということは、私も伺っています」
と、おもむろに青年に告げた。
「ああ、やっと出会えた…」
と言いながら、すがるような目でママを見るその青年に
「何があったのか、伺ってもいいかしら?」
と、ママは優しく言った。

「私は、市民交響楽団のバイオリニストです。三年前まで、この子達の前の飼い主だったナガレヤマ先生に師事していました。先生のお宅でレッスンを受ける時に、よくこの猫さん達に会っていました」
「そうなんですね」
  私達のことをさん付けで呼ぶこの礼儀正しい若者に椅子を勧めて、ママはそっとお水とおしぼりをテーブルに置いた。
「その当時、私はプロの音楽家を目指して毎日猛練習をしていました。ナガレヤマ先生は、大変温厚なお人柄でしたが、しかし、全ての音楽家がそうであるように、音楽に関しては揺るぎない信念をお持ちの方でした。演奏技術は勿論ですが、それ以上に演奏者の心持ちが音に現れるということを先生は常々仰っておられました。その頃、私はウィーン留学のただ一つの席を巡ってライバルと切磋琢磨していましたから、先生の、私の指導への熱の入れようは一入でした。…ある時、先生が珍しく語気を強めて私にこう仰いました」
   そこまで言って、青年はしばらく黙り込んだ。私達猫も皆、彼の話に耳をそばだてて、息をのんで彼の次の言葉を待った。
「『ナカムラ君。君の演奏は、技術的には最高だ。自分が君くらいの年の頃そこまで弾けていたか?と考えると、私など到底足下にも及ばないほど、君の演奏は正確で美しい。ただ…』」
そこまで言って、ナカムラ君はまたしばらく沈黙した。
「『ただ、君の演奏には決定的に足りないものがある』と、先生は強い口調で仰いました」
「まあ」
   ママが思わずそうつぶやいた。
「『それが何か、今、私から君に言うとは容易い。しかし、それは君が気付いて克服すべき課題だ。すぐに答えが出るかどうかは分からないが、しばらく君自身で考えてみてほしい」と』
    今度は、ママは何も言わなかった。
「その翌日、ナガレヤマ先生は、脳梗塞で倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。私は、その直後に開催されたコンクールでライバルに敗れ、プロへの夢は潰えました」
  沈黙が、皆を包んだ。
「それが私の実力だったのですから、仕方のないことでした。しかし、私の中には、永遠に答えの出ないナガレヤマ先生からの問いだけが残されてしまったのです」
そこまで話し終えると、ナカムラ君は、汗のように水滴のついたグラスの水を一気に飲んだ。
「その方が亡くなって間もなく奥様は施設に入られて、ご親族は保護団体にこの子達を連れて来たんです」
と、ママはオルガとルチアーノを見ながら言った。
「日頃、あまり交流がなかったようで、猫の名前は分からないって。だから、私がルチアーノとオルガと名づけました」
「ああ、パバロッティとペレチャッコのファーストネームですね」
  ナカムラ君の顔が思わずほころんだ。
「ええ。私、オペラが好きなんです」
ママも微笑んだ。
「私が先生のお宅に通っていた当時は、トトロとメイでした」
「まあ、可愛い」
「先生のお孫さんが付けられた名前だそうで。息子さんのご家族はドイツで暮らしていて、私は一度もお会いしたことはなかったですが…」
「そうでしたか…」
  色々なことに思いを巡らせながら、ママはゆっくり頷いた。
「しかし、なぜあなたはこの猫達を尋ねて?」
マスターが彼にそう聞いた。
「先生の奥様は、今は重度の認知症で施設に入っておられるようですし、あの時の私と先生のやり取りを知っているのは、この世には、もうこの猫さん達しかいないのです。いつもはレッスン中には決して誰も部屋に入れない先生が、その日に限って猫さん達を、レッスン室に入れておられたのです。ナガレヤマ先生が最後に私に言おうとしたことは一体何だったのか?先生が亡くなって三年経った今になって、その事が頭の中で何度も蘇って、私はすっかり不眠症に陥ってしまったのです…」
「それはお辛いですね」
マスターは、心から同情したようにそう言った。
「猫に聞いてもどうなる物でもないということは分かっています。でもあの時の先生の真意は何だったのか、この猫さん達に教えてほしいと思って、あちこち探し回って、やっとこのお店に辿り着いたんです」
   ポカンとしているマスターの顔を見て、ナカムラ君はふと我に返ると少し恥ずかしそうに頭を搔いた。
「僕、変なこと言ってますよね?猫に何が分かるか?ってお思いでしょう?でも、ナガレヤマ先生は、この子達をとても大切にしておられました。まるで、実の子どものように。ですから、いつからか私も、猫にも人間と同じように感性や感情というものがあって、人間の言葉もこちらが思っている以上に、本当は理解できているんじゃないかって思うようになったのです」
「そうでしたか…」
  こういう時、決まって店に他のお客さんが入って来ないのは、いつもカーティスの計らいだと思う。マスターとママは、親身になってナカムラ君の話に聞き入っていた。
(ナカムラ君、随分大人になったわ)
懐かしそうにオルガが言った。
(僕達は、彼が高校生の頃から知ってるんだ。トトロ…、久しぶりに聞いたよ。懐かしいな)
ルチアーノもそう言って目を細めた。
(それにしても、この状況、何とかしてあげなきゃね)
私は二匹に言った。
(そっ、それはそうだけど…。確かに、あの時、なぜかたまたま私達は同じ部屋の中にいたけど…)
(でも、オトウサンが本当は何を言いたかったのかなんて、今更僕達に聞かれてもねぇ…)
   肝心な所で、二匹はすっかり逃げ腰だった。まあそうよね。私だって、前のお家のおばあさんがホントは何を考えてたかとか、今更聞かれても困ってしまうもの。
(考えても分からない時は、聞きに行ってみるってのは、…どうかな?)
  不意にそう言ったのは、カーティスだった。
(聞きに行くって、誰に?)
私はびっくりした。まさか…。
(そう、まさかのナガレヤマ先生に)
  カーティスの言葉に、私も含め他の 猫達一堂は、全員その場で固まった。

 


f:id:kanakonoheya:20220423131703j:image