棗坂(なつめざか)猫物語

猫目線の長編小説

2-1章


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2-1章

 9月のミニコンサートからほぼ半年が経過して、その間に、アートスペース 猫カフェマリエと私のお家の周りでは、色々な事が変わったわ。 まず一番大きな変化は、クリスマスイブの夜に、レイがマドンナのお家にもらわれて行ったこと。「本当に良いんですか?レイ君をうちの子にさせてもらって」その数週間前、閉店後にクリスマスツリーの飾り付けをするママに、箱から出したキラキラの丸い飾りを手渡しながら、マドンナは驚いたようにそう言った。「ええ、イズミさんさえ良ければ」ママはゆっくり頷いた。「この子はここ半年で急に体力が落ちたから、お店で他のお客様に接するのはすごく疲れるみたいなの。この頃殆ど一日中ソファーの下で寝ているし。でも、どんなにグッタリしていてもイズミさんが来たら、すぐに起きてあなたの傍に行くでしょう?余程あなたの事が好きなのよ」「ええ、それはもう、私も同じ気持ちですから、よく分かります」マドンナは、相思相愛の相手の事を言うように、足元で丸まって寝ているレイとママを交互に見ながら、少し頬を赤らめてそう言った。「きっと、この子はもうそんなに長くは生きられないと思うから、最終的にあなたの負担になるんじゃないかって、私も夫も心配ではあるんだけど…」「負担だなんて、そんな…。逆に、ありがたい限りです」マドンナはそう言うと、静かにしゃがみ込んで、赤ん坊のように、ゆっくりとレイを抱き上げた。「私、この子のお陰で、今の元気な自分があると思ってるんです。何て言っていいのか言葉が見つからないんですけど。…そう、レイ君の存在に心身ともに癒やされた、と言うか…。このお店に来て、レイ君を膝に乗せて寝ていると、不思議な力が自分の中に少しずつ湧き上がってくるのが分かったんです」マドンナは、テーブルの上のオレンジ色のランプの灯りに目をやって、当時の事を思い出しながら話を続けた。「癌が再発したって聞いた時、私、正直『もうダメた』って思ったんです。あの辛い治療にもう耐えられない、って。それで、何もかもがもうどうでも良くなってて…。そんな時にパン屋さんの前でレイ君と出会ったんです」マドンナは、いつか私達がレイから聞いたのと同じ、レイとの馴れ初めをママに語った。「科学的には、抗癌剤治療が功を奏したということになるんでしょうけど、私の中では、レイ君が私の病気を治してくれたと思っているんです。だから、今度は私が、最後までレイ君の傍にいてあげたいって…」マドンナは、真剣な眼差しでランプの灯りを見つめた。「こんな勝手なお願い、聞いてくださるなんて、ホントにありがとうございます。レイ君のこと、必ず最後まで見届けます。レイ君が私にしてくれたことのお返しに、今度は私が、精一杯大切にお世話します」マドンナは、優しくレイを抱きしめながらそう言った。 良かったわね、レイ。レイの思いはちゃんとマドンナに伝わってる。 レイの体はもうボロボロだけど、(俺は、自分の生まれてきた意味が今、ハッキリ分かるんだ。彼女を守るために、今回猫として俺はこの世に生まれてきた。それが分かった今が一番幸せだ)って、昨日彼は私達に話してくれた。 照れ屋で普段余り自分の事を話さないレイの言葉は、皆の心にじんわり染みた。(何だか淋しくなるわね)その後の段取りをママと話し合った後、店を出ていくマドンナの背中を見送りながら、ジャニスが言った。(そうね。だけどレイにとっては、こうなることが一番幸せなんだと思うわ)と、オルガはジャニスの鼻の上の輪っか模様に自分の鼻をそっとすり寄せながらそう言った。 そして当日、閉店後に中村君と一緒にマドンナは店にやって来た。(兄貴、達者でな)(幸せになってね)カーティスとジャニスがレイに言った。 私も含め、他の4匹の猫は、その他に何て言ったら良いのか分からず、黙ったままだった。…だけど、レイ以外の残りの猫は7匹だから…。(サリナは?)(あの子、ああ見えてすっごい淋しがり屋だから…。夕方からバックヤードに籠もって出て来ないんだよ)エリックが複雑な面持ちで、少し心配そうにそう言った。(入るわよ)5センチ程のドアの隙間を頭で押し開けて私がバックヤードに入ると、サリナは丸まって不貞寝していた。(さあ、皆でレイを笑顔で送り出してあげましょう。泣くのは後よ)(泣いてなんかいないわ)私の呼びかけに、ムッとした顔のままサリナは体を起こして皆の居る部屋に向かった。 サリナについて部屋に入ると、白いロングコートを着たマドンナは、肩まで伸びた髪をほどいていて、ブルーのショールで大事そうにくるんだレイを抱いていた。(わぁ、マドンナ、まるでその絵の中の人みたい)その姿を見た途端、思わず私の口をついて、その言葉が出てきた。クリスマスの飾りと一緒に玄関横の壁にこの季節だけ飾られるその絵の丁度真横に 、レイを抱いたマドンナは立っていた。(それは、聖母マリア…つまり本物のマドンナの肖像画よ)と、オルガは私に教えてくれた。(レイ、今まで色々ありがとう)(出会えて良かった。ホント、楽しかったよ)(これからもずっと、あなたらしくいてね)改めて、エリックとルチアーノとオルガも、それぞれの場所からそれぞれの言葉で、レイにお別れの挨拶をした。(ありがとう。みんな、元気でな)レイは、殆ど見えなくなった目で空を見て、それぞれの猫の存在を確かめるように、頷きながら一言一言を噛みしめていた。 こういう時、気の利いた言葉が浮かばず何も言えない私は、不貞腐れたままのサリナの方を見た。悲しい時、私みたいにシュンとするタイプと、サリナみたいに怒ったようになるタイプの猫がいる。それは人間もきっと同じね。(…あっちに行ったら、また、会いに来てくれるんでしょ?)しばらくして、不意にサリナがレイに向かってそう言った。 その言葉の意味を理解するのに少し間があったけど。…そうだ。そうよね、私達…。(その時は、あの音楽隊の人達も連れて来てよね)と、私があえてお茶目にそう言うと、他の猫達も、皆その事を思い出したみたい。(そうだね。その時は、オトウサンもきっと来てくれるよ)以前、ナカムラ君の演奏の時にやって来た、半透明の人達のことを思い出して、ルチアーノが嬉しそうにそう言った。「その時」を迎えるのは悲しいことだけど、レイは今の不自由な体から解き放たれて自由になれる。だけど今、レイは大好きな人の腕に抱かれて幸せだから、少しでも長く今の状態でいたいはず。 生きるって、全て上手くはいかないものね。何かを得ることは何かを失うこと。どんなに楽しい時間も、いつか必ず終わりがくる。だけど、その時その時を一生懸命、本当の自分に正直に生きていけば、いつでもそれなりに幸せでいられるのかもしれない。きっとそれも、人間も猫と同じね。(少しの間、お別れだ。皆、良い猫にしてるんだぜ)レイは、兄貴分らしい言葉を残して、店を後にした。レイを抱いたマドンナの後ろに、大きな紙袋を下げたナカムラ君が、そっと寄り添うように付き従っていた。 聖夜の空に、並んだ三つ星。あれはオリオン座のベルトの部分だと、丁度一年前の今頃、ショウ君に教えてもらったことを、不意に私は思い出していた。


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