棗坂(なつめざか)猫物語

猫目線の長編小説

2-3章


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2-3章

(お兄ちゃん、お帰りなさい)
 私は、お兄ちゃんに鼻チューしようと近づいたけど、お兄ちゃんの鼻には、またしても生々しい爪痕が刻まれていた。
(やだ、お兄ちゃん、また怪我してる…)
 私は、鼻チューするのをやめて、少し後ずさった。こういう傷には要注意。傷から病気がうつることはとても多い。
(お前、元気そうだな。それに、その子とも仲良くしてくれてるみたいで、良かった)
お兄ちゃんは、少し疲れた声でフネと一緒にいる私にそう言いながら、チラッと後ろの若い雌を見た。
(今度はこの子のことも、よろしく頼む)
お兄ちゃんにそう言われて、私は改めてその新しい若い雌を見た。その雌猫は、フネよりは少し大きいけどやや短足で、黒と薄茶の混じった、微妙な色味の長めの毛に全身を覆われていた。この時期だし微妙に長毛だし、だけど、それにしてもこのモフモフ加減は…。
(お兄ちゃん、その子…妊娠してるわね)
私は、地面を擦りそうなその雌猫のお腹の辺りに目をやってそう言った。
(ケイト、お前、よく分かるな)
お兄ちゃんは、猫にしては細い目を見開いて、驚いたようにそう言った。
(そのお腹見れば、猫なら誰だって分かるわよ。…それって…、お兄ちゃんの…子?)
(ああ、…まあ、そうあって欲しいのはやまやまだが、…分からないだろう?俺達、猫の場合…)
(まっ、まあ…、そうね。…確かに…)
 私達の、何となく歯切れの悪い会話を聞きながら、その雌は罰が悪そうな面持ちでその場に佇んでいた。
(とにかく、後は頼んだ)
そう言うと、お兄ちゃんはまたスーッと、ナガサワさんとうちのお庭との境目にある茂みの奥に消えて行った。
 何よ、お兄ちゃんったら。久しぶりに会えたと思ったら、あっと言う間にいなくなっちゃって。それに、こんな身重の猫を、一体私にどうしろって言うのよ。
そうこうしていたら、カオルがおやつの入った缶を振りながら私を呼んだ。
「ケイト、早く帰ってらっしゃい!ケイトのせいで、私、遅刻しそうだわ!」
カオルは掃き出し窓の出入り口に立って、甲高い声で私に向かってそう叫んでいる。
(私、これからお仕事なの。フネちゃん、悪いけど、後はよろしくね)
私は、その妊婦の猫に軽く視線を投げかけただけで、後はフネに丸投げして、そのままお家に走って帰った。

(えっ、じゃあ、その妊婦のお腹の子どもは、ケイトの甥や姪、って可能性もあるんだ?)
お店に着いて、今朝の出来事を皆に話すと、カーティスは、野次馬根性たっぷりにそう言った。
(まあね。でも、お兄ちゃんも言ってたけど、それって本当のところは誰にも分かんないじゃない?)
(まあ、そうだよね。でも、それ言いだしたら、結局、人間だって一緒だけどね)
エリックが大きく伸びをしながらそう言った。
(でも、いいなぁ。お母さんになるって、どんな気持ちかしら?)
明かり取りの窓辺から、サリナもこの話に入ってきた。
(だけど、野良の子育てって、結構キツいんじゃない?)
ジャニスは、昔の事を思い出すかのように遠くを見ながらそう言った。
(その子が子どもを産んで、そのうちフネちゃんも大人になって子どもを産んだら、ケイトの家の周りは子猫が一杯増えるね)
ルチアーノが楽しそうに言った。
(そうなっても、色々面倒なことが起きなければいいけれど…)
オルガは、大人っぽい感想を述べた。
 私達猫が、そんなローカルな話題に花を咲かせていると、その日の夕方、ノザワさんがいつになく険しい面持ちで店に現れた。
「遂に、ロシアがウクライナに攻撃を開始したようですね」
ノザワさんは、深い皺を眉間に刻んで、カウンター越しにマスターにそう言った。
「とうとう始まってしまいましたね」
マスターも深刻な顔をしてる。何の話なのか、その時は全く分からなかったけど、何だかただ事ではない空気を、私達は察知した。

 その夜、私はお家のテレビで二人の会話の意味を理解した。
 大きな爆音とともに夜空が一瞬真っ赤になり沢山の建物が一気に粉々に砕け散っていく。焼け焦げた瓦礫が積み重なり、頭から血を流した人が運ばれていく風景。近くでは子どもが泣き叫ぶ声が聞こえる。
 また、しばらくすると、浮腫んだ狼のような顔をした金色の髪の毛の男が、怖い顔で何か話している映像が浮かんだ。私のこれまでの経験上、この手の顔の人は恐らくは日本人じゃないわね。私は文字が読めないから、字幕を読んで外国の人の話す言葉を理解することは出来ないけど、その人が何か途方もなく怖いことをしでかしているというのは、よく分かった。なぜって、その人の周りにはどす黒い邪気が渦巻いていたし、その人の目自体が怒りと恐怖に満ちていたから。
 自分から恐ろしいことを始めておいて、途中から恐怖を感じる、というのは人間だけの特徴。
「酷いことになってるわ」
次々テレビ画面に写し出される壊れた家の風景を見ながら、カオルも昼間のノザワさんやマスターと同じように深刻そうに、一人そう呟いた。
 そして、カオルはスマホを手に取って、何かを調べ始めた。カフェのお客さんもそうだけど、人間は、一日の中で、この薄くて小さい板を眺めている時間が物凄く長い。
「うそ?何これ…。こんなこと、ホントに起こるの…?」
何か、動く映像を見ながら、カオルは一人でそう呟いた。この、スマホを見ながら独り言を言う事が、カオルはふだんからとても多い。これをやり始めると、きりがないから、私は食後のオヤツのおねだりを諦めて、腕を組み直してマッタリモードに入ろうとした。
 すると不意に
「見て、ケイト、これがウクライナの猫よ」
と、カオルが私の目の前にスマホを差し出した。するとその画面には、カラフルなドレスを着て花の冠を被った白猫が映っていた。
(えっ、何、この子?なんてカワイイの?!)
 思わず叫びたくなるくらい、カワイイ猫の写真に私は驚いた。普段、この界隈とお店の猫にしか会っていないせいか、私は成猫の中では自分が一番可愛いと思い込んでいたとこがあったけど。…いやいや、この子には負けたわ。愛くるしさが半端ないし、それに、こんな鬱陶しい装飾を難なく身につけていられるこの淑やかさ。猫と言うよりは、まるで人間の女の子みたいにお行儀良く、そのカワイイ「ウクライナの猫」は写真に収まっていた。私もそうだから分かるけど、この顔は、自分がカワイイとうい事を知り尽くした顔よ。どんな表情でどの角度から写真に撮られるのが良いか、この猫ちゃんは日々研究しているに違いないわ。
 それに、この何とも言えない品の良さ。私の周りの猫で気品ある猫と言えば、真っ先にショウ君を、次いでオルガを思い出すけど、このウクライナの猫ちゃんは、気品と可愛らしさを兼ね備えているの。
(近くにいたら、絶対お友達になりたいタイプだわ)
私はそう呟いた。
「民族衣装を着てるんだって。ホントに可愛いわね」
カオルは、珍しく私のテレパシーをよんだかのようなリアクションを返してきた。
(民族衣装?それって私も着られるのかしら?)
「ケイトも着物でも着てみる?なんて、あなたはこんなにお利口に服を着たりは絶対しないでしようね」
カオルは私と会話しているかのように独り言を言った。
「それにしてもこの猫ちゃん、今頃どうなっているのかしら…」
カオルは一瞬緩んだ表情を再び暗くして、そう言いながらため息をついた。
 それってどういうこと?カオルの見ているテレビとスマホの画面は何か関連があるのかしら?

 


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