2-10章
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2-10章
「ああ見えて、野良はものすごくすばしっこいですからね。あんなに小さくても、もう二か月近く外で暮らしてますから、警戒心は相当強くなってますよ」
ショウ君パパ…こちらは、ヨシダさんの方ね…は、腕組みしながらそう言った。
「折角の休日に、こんなことお願いしてすみません」
「いえいえ」
次の日の朝、カオルとショウ君パパは、わが家の裏庭で作戦会議を始めていた。
「目の前で餌は食べるけど、絶対触らせてくれないし、スティックタイプのおやつ以外は、手から直接食べることもないんです」
「一度取り逃がすと、更に警戒して、しばらく来なくなるかもしれないし…」
「そしたら、いよいよ臨界期を過ぎてしまうかも…」
「つまり、これが…」
そこで二人は黙り込み、その後同時にこう言った。
「ラストチャンス、ですね」
人が多いと子猫が余計に警戒するから、捕獲に成功するまでメイちゃん一家は猫のトイレや食事の準備をしながら自宅待機、ということで、昨日は一旦解散していた。
そして、カオルの気が散るから、ということで、今朝は私もお家の中でお留守番させられることになった。
一階だけど地面の傾斜の関係で中二階のような、北東に位置する部屋の窓辺で、ブラインド越しに私は人々と猫達の様子を見物することにした。
カオルの判断は正しくて、確かに私はその場に居合わせない方が良かった。だって私、猫の気持ちも人の気持ちもどっちも分かる微妙な立ち位置だもの。
今朝のパトロールの時、ヨネにはこれから起こるであろうことを、前もって伝えておいた。
(そうですか。私達…、捕獲、されるんですね…)
ヨネは、未知の世界への期待と不安の入り交じった、複雑な表情でそう言った。
(チビのためには、きっとその方が良いのよ。このままここにいたら、また何時カラスに襲われるか分からないし、あの子の毛量は、日本の夏には絶対向かないもの)
(そうですよねぇ…)
ヨネは、心許ない様子で私の意見に一応同意した。
(だけど、あの子を見ていると、ここでこのまま暮らすのも、悪くはないんじゃないかという気もするんです)
確かにヨネの言うように、今のこの状況では、カラス以外は、差し迫った危険はないのかもしれない。それだって、子猫の身体能力がカラスの戦闘能力を凌駕するのは時間の問題。そして、今やヨネ親子はカオルからきちんと定期的に食事を与えてもらっているんだし、何だかんだ言っても、やっぱり野良の自由さは家猫にはないものだし…。そう考えると、私も、無理にヨネ親子が家猫になる必要はないんじゃないかという気もしてきた。それに、本音を言うと、あのチビにもう会えなくなるのは、実は私も淋しいし…。わが家の花畑の中を走り回るあの子の姿は、ずーっと見ていたいと思うくらい、本当にステキな光景だもの。
そんな考えが頭を巡る一方で、私はこの頃しばらく会っていないお兄ちゃんのことも咄嗟に思い出していた。そう言えば、野良の平均寿命は三から四年と前にカオルとナガサワさんが話してたっけ…。大好きな優しいお兄ちゃん…。私達、もう一生会えないのかなぁ…。
…ああ、ダメダメ。今はセンチメンタルになっている場合じゃないわ。
私は至って冷静に、ヨネに向かってこう言った。
(ヨネ、よく考えてごらんなさい。今は五月。一年中で一番外が気持ちいいこの時期だから、あなたはそんなことを思うのよ)
ヨネは、ハッとした顔で私を見た。
私は言葉を続けた。
(これから、ジメジメして何にでも黴が生える梅雨や、濃い色の毛が焦げそうなほど暑い夏や、私達猫には一番過酷な凍える冬が、いづれやって来るのよ)
黙ってうつむくヨネに、かぶせるように、尚も私は持論をぶった。
(それに、チビは男の子だからね。そのうち他の雄と、雌や餌を巡って熾烈な縄張り争いをするようになるわ。噛まれたり引っ掛かれたり、そこから悪い病気をうつされるリスクは、雌の私達とは比べ物にならないはずよ)
(そ、…そうですよね…)
ヨネは、私の淀みない説得に圧倒されながら、何とかそう返事をした。
(もしもあなたに幾らかでも聡明さがあるのなら、この機を逃す手はないわ。それに、あなたも昨日聞いただろうけど、あのメイちゃんって人は、あなたも一緒に引き受けてくれるって言うじゃない?こんなチャンスはまたとないことよ)
(まあ、…確かにそうですよね。私のような平凡な野良猫を、わざわざ捕獲してまで飼おうなんて人は、きっと、この先現れないでしょうね…)
あら、このヒト、意外と世間ってものが分かってるじゃない。
(それに、あのメイちゃんは、ものすごーく良い人よ。基本的にセンスが良いし、自分本意じゃなく、私達猫の気持ちをとても良く分かってる人だと思うわ。その人の所で暮らせるなら、必ず幸せになれる。それも、親子でずっと一緒に。ね?最高じゃない!)
(たっ、確かに、そうですね)
他に返答の余地がないくらいの圧で、私はヨネにポジティブな未来予想を力説した。
それでも、心配性のヨネはこう言った。
(だけど、そこには犬がいるんですよね?)
あっ、それ。…やっぱり気にしてた?
(犬?あんなの単純よ。すぐに「君たちは僕の友達だ」って尻尾を振ってくるわよ。…嘘じゃないわ。現に私、そういう犬、知ってるもの)
モカの事を、ちょっと盛って、訝しげな目をして私を見ているヨネに話してみた。本当はジャニスの催眠術のお陰だけど、ここではそれは省略しておこっと。
とにかく、そんなこんなで、一応ヨネはメイちゃんの所で家猫になることに同意した。
(だけど、あの子には、どう説明したら良いでしょう?)
ヨネは不安そうに私に聞いた。
(そんなこと話したら、あの子は警戒してどこかに逃げ出しちゃうから、言っちゃダメよ)
根拠はないけど何となく、私はヨネにそう言って口止めした。
「それでは、始めましょう。クロズミさんが猫じゃらしで子猫の気を引いているところを、私が網で捕獲します」
ショウ君パパがカオルに段取りを指示する声が、お留守番している私の耳に、家の外から聞こえてくる。
「念のため、ヨネの事に詳しいナガサワさんの奥さんにも来ていただきました」
ショウ君パパは、周到に準備するタイプだった。
私のいる位置からは子猫の動きは見えない。しばらくは、人間達がそれぞれ好きなことを話している声が聞こえていた。
「は~い、チビちゃん、こっち、こっち~。ほらほら、これこれ。 えいっ!さぁ、どうだ~?」
カオルは猫じゃらしでチビを誘き寄せているようだった。
「ハーイ、ジャンプ~」
「ほら、も一回…。ジャ~ンプ!」
「そうそう、良い感じです。できればそのまま、網の上に誘導してください」
ショウ君パパがカオルにそう言った。
「先ず、子猫を先に捕まえてしまいましょう。そうすればヨネの方はどこにも行かない筈だから」
というショウ君パパの狙いは正しかった。程なくして
「ニャー!!」
という甲高い鳴き声が聞こえてきた。チビが網にかかったのだ。
「ニャー!ニャー!」 (なんだよ?これ!離せー!) チビが叫んだ。
魚をすくうような、太い糸で編んだ網を携えて、ショウ君パパがわが家のガレージの方に向かって足早に歩く姿が見えた。その網の中には、丸まってより小さくなったチビの姿が、チラッと私の視界に入った。
「ニャー!ニャー!」 (離せよ!離せー!)
ショウ君パパは、チビをガレージの中にあるケージに入れようとしたのだろう。だけど、チビも生後二か月足らずとは言え、もはやいっぱしの野良猫だ。ただで捕まる訳はない。
「うわぁ!やられた!」
ガレージの中で、ショウ君パパが叫んだ。
「この子、こんなに小さいのに…うっ、臭いっ!」
恐らくチビは、ショウ君パパにとびきり臭いオシッコをスプレーしたのだろう。
ガチャ、ガッシャン!という音がした後、ショウ君パパがガレージから出てきた。
「フー。何とかケージに子猫を入れる事が出来ました」
ショウ君パパは、着ているシャツの胸元を指先で摘まんで、顔をしかめながらそう言った。
「後は、ヨネの捕獲ね」
「あの子は大人しいけど、そうは言っても野良ですから。気をつけてくださいね」
ショウ君パパの声掛けに無言で頷きながら、カオルは、バラの剪定用のゴワゴワした牛革の手袋をはめて、ヨネの方に近づいた。
人間達にジワジワと追い詰められて、ヨネは野良の習性でその場から逃げ出したいような、けれど母猫の本能として子どもを残しては行けないような、微妙な状態でガレージの前を行ったり来たりして逡巡していた。
そんなヨネに向かって、ナガサワさんの奥さんは、こんな言葉をかけた。
「ほら、ヨネ。大人しく捕まって、お家猫にしてもらいなさい。あなたみたいな控えめな性格の子は、そもそも野良は向かないんだから」
そして、優しくヨネを見つめて諭すように言葉を続けた。
「あなたが今まで頑張って子育てしてきたこと、私はとても立派だったと思うわ。だけど、もうこの辺で一人で頑張るのはやめにしてて、誰かに甘えてみるのも悪くないんじゃないかしら?」
それからしばらくして、皆がガレージの中に入って行って、さっきと同じ金属的な音が二回聞こえた後、拍手と歓声が起こった。
その後しばらくして、水色の小さくて可愛らしい車に乗って、メイちゃんと男の子がやって来た。