棗坂(なつめざか)猫物語

猫目線の長編小説

2-5章

シーズン2 -5章
 
 翌日、お店の皆に、私は昨日ショウ君から聞いた世界情勢のことと、その前の晩にカオルのスマホで見た、世にも可愛らしいウクライナの猫の話をした。(可哀相に。その子は今頃どうなってるのかしら)とジャニスが言った。(その大きい国のトップの奴を、早く誰かが殺っちまえば良いのに!)カーティスは激昂した。(言いにくいことだけど…。その大きな国は、私の祖先の生まれた国だわ。何だか私、心苦しい…)そういうオルガは、昨日から何だか元気がない。(そんなの気にする必要ないよ。オルガのせいじゃないんだもの)エリックはオルガを慰めた。(これから世界はどうなっていくんだだろう…)ルチアーノが不安そうにフサフサの尻尾を体に沿わせて身を縮めた。サリナは、怖がって朝からずっと定位置で丸まったまま、ダンマリを決め込んでいた。
 
 そして、その夜私は夢を見た。昔懐かしい、若い女の人が出てきて「コウメちゃん」と私を呼んだ。白いブラウスを着て、紺色の着物のような模様のモッサリとしたシルエットのズボンを履いた女の人の膝の上に、私は乗った。女の人は前に夢の中で会っていた時と同じ、初夏の花のような匂いがした。 女の人は思い詰めた表情で誰かを待っているようだった。きっと、いつもの兵隊さんだわ…、と思っていたら、その人は現れた。だけど、その人はいつもの兵隊さんの服ではなく、黒い詰め襟の学生服を着ていた。「ミスズさん。お呼び立てしてすみません」と男の人は、申し訳なさそうな顔をしてそう言った。「いいえ、私も、いつかショウタさんとお話しする機会があればと、思っておりましたの」この二人が名前で呼び合うのを、私は初めて聞いた。二人は並んで座ったまま、しばらく沈黙していた。あまりにも長い沈黙で、私は夢の中で更に寝てしまいそうなくらい…。 いつしか私は真っ暗な部屋の中にいて、部屋の真ん中のテレビ画面を眺めていた。そこには、さっきのミスズさんとショウタさんとミスズさんの膝に抱かれたまま眠る私の姿があった。「とうとう、我が家にも召集令状が届きました」長い長い沈黙の後、ショウタさんはミスズさんにそう告げた。「えっ。そんな!?」部屋の隅からミスズさんの声がした。その方角を見ると、そこだけスポットライトが当たっていて、そこには小さな水槽のような入れ物に入った人形のような物がいて、よく見ると、それは野ネズミくらいの大きさのミスズさんだった。 何これ? その声に反して、画面の中のミスズさんは、そのまま黙って頷くだけだ。「先生に、今までのお礼をお伝え出来なくて残念でしたが、何とか私なりに精一杯お国のために御奉仕して参ります」画面の中のショウタさんは、頬を紅潮させてミスズさんに向かってそう言っていた。だけど、その部屋の中の、さっきとは反対側の方向からは、こんな声が聞こえてきた。「恩師の娘である貴女を一目見た時から、自分にはこの人しかいないと心に決めていたのに…。こんな形で、最初で最後の逢瀬を遂げるなんて、僕達は何と皮肉な巡り合わせなのでしょう」その声は、少し高く上ずっていたけれど、確かにショウタさんの声で、その声の先にはミスズさんと同じく、小さなショウタさんが入った四角い水槽のような箱が置かれていた。「父は亡くなる直前まで、これまでの研究結果をまとめていました。それを貴方に託そうとしていたようです。父は貴方のことを大層信頼していましたから」画面の中のミスズさんが穏やかな口調でそう言った直後、水槽の中の小さなミスズさんは、強い口調で、すかさずこう言った。「いいえ。それは、お父様だけじゃないの。私も、貴方のことを、誰よりも信頼し、そして、お慕い申し上げていますのよ!」画面の中の二人は、再び互いにうつむいたまま、長い間沈黙していた。それに反して、水槽の中の小さな二人は、それぞれ勝手に、どんどん大きな声で喋り出した。「この国の未来のために、いいえ、もっと本心を言うならば、ミスズさん、あなたを守るためならば、この命捧げる覚悟はできています。だけど、…だけど、本当は…」「いっそこのまま、あなたを連れて、どこか遠くに逃げてしまいたい!誰もいない田舎で、二人きりでひっそり暮らすんだ。…だけど、この日本のどこに、そんな場所があるというんだろう?第一、この人に、そんな生活をさせるわけにはいかない。…いやいや、それ以前に、彼女が僕なんかを選んでくれるわけもない。こんな意気地無しで女々しい男を…」小さなミスズさんはこう言った。「いっそこの場で、今、私の持っている裁ちバサミでこの人に斬りつけて怪我を負わせたら、ショウタさんは、戦争に行かなくて済むのかしら?だけど、そんなことしたら、私は、そして私の家族までもが、非国民と呼ばわれるわ。それに、そんな怖い女、この方はお嫌いでしょう。そうよ。…ここは、笑顔で…」「ご武運を…お祈りしております」画面の中のミスズさんは、静かな笑顔でそう言った。 その後も、水槽の中の小さな二人の各々の勝手なお喋りは続く。「ああ、せめて、生きて帰ってくるのを待っていてと、伝えたいけれど…。そんな、何の保証もない約束など、出来るわけがない。そんな無責任な言葉で、この人を縛る訳にはいかない。ああ、でも、彼女が他の誰かのものになるなんて、耐えられない!だけど、だからって、我々は、付き合ってもないんだし」「父が亡くなった今となっては、私と結婚しても、ショウタさんには何の未来も約束されないもの。こんな前途ある優秀な方を、私のわがままでこんな片田舎に留めておくことは出来ないわ。この戦争がなければ、この方はヨーロッパ留学も可能だったでしょうに。…可哀相なショウタさん!私はずっとあなたを待つわ!だけど、、女の口からそんなこと。言えない…やっぱり言えない!」「この子は、ショウタさんにとても懐いていましたわ」画面の中のミスズさんは、膝の上で眠る私の頭を撫でながら、そう言った。「コウメちゃん、でしたね?先生の書斎によく来ては、大事な書類の上に座り込んで先生を困らせてましたっけ。今となっては、それも懐かしい思い出です」そう言って、ショウタさんも、ミスズさんの膝の上の私の頭をそっと撫でた。「ずいぶんよく眠っていますね」ショウタさんは私の喉を、ミスズさんは背中を撫でながら、ベンチに並んで座っていた。 不意に、ショウタさんの指先が、微妙に私の喉に引っかった。咄嗟に、ミスズさんの指が、私をかばうかのように、そしてまた、彼女の押さえ込んだ感情を放出するかのように、ショウタさんの指を押さえた。 そのまま、二人は一瞬動きを止めた。全神経を、その指先に集中させ、二人は黙って見つめ合った。 時が止まった。そう私が感じた瞬間、それまで私のいた空間は急激に狭まり、私はミスズさんの膝の上に乗っていられなくなった。  私はお家のリビングのソファーの上で目を覚ました。夢からも、夢の中の夢からも、同時に目覚め、何だかドキドキして、同時にとても切ない気持ちになった。 元の飼い主のおばあさんの名前を、私はそれまで知らなかった。その家を、ほとんど誰も訪ねて来なかったし、数少ないお客様は、おばあさんのことをサカグチさんと呼んでいたから。彼女はきっと、ずーっと一人であの家でショウタさんを待っていたんでしょうね、歴代のコウメちゃん達と一緒に。 本音と建て前が全く違うのは、二人の性格のせいかしら?いいえ、きっと、そうじゃない。性格は皆それぞれ違うもの。だけど、夢の中の二人は、二人とも同じように本音と建て前を持っていた。それが時代の空気なのか、戦争という物が人をそんな風にしていくのか、私には分からなかった。ただ、とてもとても淋しくて、私は早く朝を迎え、ショウ君に会いたいと思った。
 

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