2-6章
2-6 章
朝になくて、私はいつものようにヨシダさんのお家の二階の窓辺に跳んで行った。 ショウ君は、いつものように優雅な佇まいでそこにいて、私は明け方見た夢のことを一気に話そうと思った。…だけど、結局、なぜかあの夢の話は、ショウ君には出来なかった。所詮、あれば私の見た夢に過ぎなくて、ショウ君にどう伝えて良いのか分からなかった。それに、何だか私はミスズさんの気持ちが分かりすぎて、あの夢の事を思い出すのがだんだん辛くなってきた。だから、その日はショウ君には当たり障りない世間話だけして、私は早々にヨシダさんの屋根から降りた。
(ケイトさん、おはようございます)
我が家のお庭をトボトボ歩いていると、フネがナガサワさんのお庭の塀の上から、私に挨拶してきた。
(あら、フネちゃん。おはよう)
(ケイトさん、どうしたんですか?何だか今日は元気がないみたい…)
フネ、この子ったら鋭いわね。
(そっ、そう…?そんなことないわ。…今朝は早くから目が覚めちゃって、そのせいでちょっぴりボーッとしてるだけよ)
猫に寝不足なんてあるのかしら? と思いつつ、苦しい言い訳をしている私に
(それはそうと、あの妊婦さん、後一月程で子どもが産まれますよ)
と、フネは言った。
(へー、そうなの…。…って、何でフネちゃんに、そんなことが分かるの?)
やけに世慣れた口ぶりのまだ子猫のフネに、ちょっと驚きながら私がそう言うと
(サビコさんがそう言ってました。あのくらいのお腹の大きさだと、大体その頃だろうって)
と、フネは丸い目を見開いて、ワクワクしたようにそう言った。
沈丁花の香りがふんわりと漂ってきた。
(「それって、ケイトの甥や姪って可能性もあるってこと?」) という、一昨々日のカーティスの言葉が、それから何日も私の頭のなかでリフレインしていた。
そして、トヨダさんのお庭の八重桜が咲き始めた日の朝、ヨネが
(ケイトさん。赤ちゃん、そろそろ生まれるみたいです)
と、ソワソワしながら私のところにやって来た。
(じゃあ、どんな子どもが産まれるか、見に行きましょうよ。どこにいるの?あの妊婦さん)
私は、逸る気持ちを悟られまいと、努めて冷静にフネにそう尋ねた。
すると背後から
(やめときな)
と、かすれた声が聞こえ、振り向くと、すぐ側の生け垣の下からサビコが現れた。
(産前産後の雌猫は気が立ってるからさ。子どもを誰にも見せたくないんだよ。下手に刺激すると、子どもを取られると思って、襲いかかって来たり、興奮して自分で子どもを殺しちまうこともあるからさ)
(そっ、…そうなの?)
サビコの忠告を聞いて、私は一旦登りかけた両家の境界線の塀の上から降りた。
(だけど、一匹だけで子どもを生むのは不安じゃないかしら?)
私だったら、絶対嫌。
(あたいが時々こっそり覗いてるから大丈夫。あんた達が見舞っても良い時期が来たら、声かけてあげるわ)
サビコは、そう言って、ナガサワさんの裏庭の方に消えて行った。
さすが、出産経験豊富なサビコ。こういうことは、経験者じゃなきゃ分からないものね。厳しい環境下で、今まで何匹もの子猫の子育てを繰り返してきたサビコの事を、私は初めて、ちょっぴり頼もしく感じた。
一方、あれからも猫カフェマリエでは、いつもと変わらない日常が続いていた。最初の頃は、お客さん達は集まればウクライナの惨禍のことを話していたけれど、その話題も日に日に少なくなってきた。それに連動して、猫達の間でもその事を話題にすることはめったになくなっていた。
その日も、お店のレジの横に置いてある水色と黄色の小さな箱に
「私にはこんなことくらいしかできませんからね」
と、ノザワさんは小さなため息をつきながらコインを入れていた。
民族衣裳を着たあの可愛い猫ちゃんは、今頃どうしているのかしら?私はノザワさんのコインが箱の中にポトリと落ちる音を聞きながら、彼女のことを思い出していた。
それからまた何日が経って、そろそろ桜の花は散りきってしまう頃になっても、サビコから子猫の話は何ら聞かされなかった。 もしかしたら、無事に生まれなかったとか?それとも、生まれることは生まれたけど上手く育たなかったのかしら?私は、無性に子猫のことが気になった。
フネも、その後、あの妊婦猫がどうなったかは知らない、と言う。ただ
(ナガサワさん夫妻から、ヨネって名前で呼ばれてるようです)
と、フネは彼女のことを教えてくれた。朝しか外に出ない私はともかく、一日中外にいるフネもとんと姿を見かけないと言うくらい、産後のヨネは、ひっそりとどこかに身を潜めているようだった。
何で私が、ろくに話もしたこともない雌猫の子どものことを、こんなに心配しなきゃいけないわけ?そう考えると、ヨネに対して時に腹立たしくなったりもした。それに、心なしかサビコにも、私もフネもその後パッタリ出会わなくなっていた。サビコはサビコで、さりげなく子猫のことを気遣いながら暮らしているのだろうと、仕方ないから私はそう思うことにした。
そうこうしていたある日の朝、ひよっこりサビコが私とフネのもとにやって来て
(ナガサワさんの裏庭の小屋の中を覗いてごらん)
と言った。
私とフネは、サビコに言われた通り、いつも以上に足音に気をつけて、そーっとその小屋の入り口を覗いてみた。中には、春先に出会った頃よりも幾分毛の短くなったヨネが横たわっていて、その周辺にモソモソ動く小さな毛の塊が四つあった。
(どうもー、おじゃましまーす)
フネは、小声でヨネに挨拶した。
(ど、…どうも…)
ヨネは、ビックリしたようにこっちを見ながら、怯えた目で返事をした。ホントだわ。サビコの言った通り、子育て中の雌はかなり気が立ってるみたい。初対面の時よりも随分尖った目をしてこっちを見ているヨネに
(突然押しかけてごめんなさい。私はケイト、よろしくね)
と、私は努めて友好的に挨拶をした。
(あっ、…わっ、私は…、ここではヨネと呼ばれている者です。ご挨拶が遅れて、すみません)
この古風な呼び名がまだしっくりきていないらしいヨネは、おどおどしながらそう言った。
(赤ちゃん、生まれたのね)
私はそう言いながら、ヨネのお腹周りの四つの毛玉の毛色をさりげなく確認した。子猫はみんな茶トラやキジトラ、中には長毛もいたけど、どこにも私やお兄ちゃんのような白い部分のある子猫は見当たらなかった。なーんだ、ガッカリ。思わず声に出そうなくらい、私は拍子抜けしてしまった。
カーティスの下らない勘ぐりに振り回されて、ここ一月ほど無駄な心配したりして、なんだかすごく損しちゃった。…だけど、私、どうしてこんな気持ちになるのかしら?別にもともと子猫になんてちっとも興味なかったのに…。「血の繋がり」という言葉に、やけにこだわってしまっていた自分に、私は改めて不思議な気がした。
(あら、可愛いじゃない。元気に育つといいわね)
私はそう言って、すんなりその場から離れようとしたけど、
(わ~、かっわい~!子猫ちゃん達、まだ目が開いてないのね。あっ、こっち向いた!あら、あなた男の子ね!きゃ~、かわい~!)
と、フネは大興奮して、なかなかその場を離れようとしない。
(フネちゃん、そんなに騒いだら子猫達がビックリするわよ。また、もう少し経ってから、改めてお邪魔しましょ)
私は、名残惜しそうなフネを無理やり引きずるようにして、その場を立ち去った。
その日一日、何となく複雑な気持ちを私は引きずっていた。だけど、ヨネの周りの濃淡の違う四つの茶色い毛玉のモコモコした動きが、不思議と私の心の中に残っていた。それは、その時はまだよく分からなかったけど、何か温かいものが私の心の中にも生まれた瞬間だった。
ツバメが地面スレスレに飛んで行った。明日のお天気はどうなるのかしら。